(十四)怒り---怒るよりも許す方が自分自身のためになる

今日のメッセージは「怒るよりも許す方が自分自身のためになる」です。そもそも怒るとはどういうことか、そしてそれにはどのように対応するのが賢明なのか、という問題です。

われわれは、たとえ顔に出さないにしても、日常何と頻繁に「怒り」の気持ちを持つことでしょうか。例えば、複数の行列があり自分もその一つに並んでいる場合、隣の列は順調に進んでいるのに自分の行列だけ著しく滞っていれば、なぜそうならないように関係者は対応しないのか、という腹立たしい気持ちになりがちです。また、自分が誰かにものごとを依頼してあった場合、予想通りに(期日あるいは品質の面で)仕上がっていなければ怒りを感じますし、逆にやらなくてもよいことをやってくれた場合にも、腹立たしさを覚えます。さらに、自分が他人のために何かを行った場合にも、それに対して何も返答ないしお礼がないならば、苦々しい気持ちになりがちです。

怒り(anger)は、人間にとって最も普遍的な、そして頻繁に経験する感情の一つです。事実、それを表わす言葉としても、怒り、憤り(いきどおり)、立腹など様々なものがあります。また、その程度が激しい場合には、激怒・激昂(fury, rage)などの表現があります。さらに、怒りの現われ方や性質については憤慨(outrage)、憤懣(ふんまん)、憤激、義憤などが、そして怒りが長期継続的な場合には、恨み (resentment, indignation, grudge)、遺恨といった言葉が与えられています。「怒り」が、哲学者にとって古来から大きな議論のテーマであったことも、もっともなことです。

怒りがわれわれに事態改善の行動を誘ったり、あるいはそれを後押しする場合には、それは必要なものです。しかし、怒りは特定の個人に対する感情として現われることが多いものです。確かに、怒りの気持ちを相手に向けて抱けば、多少は気が済みます。しかし、第三者に対して怒る(腹を立てる)ことは、実は自分自身の大きなエネルギーをそれにつぎ込んでいることを意味します。だから、怒りの矛先(ほこさき)を他人に向けているつもりでも、怒りは結局、破壊的な力として自分自身に舞い戻ってくることになるのです。また、怒りをあらわにした場合、なぜ自分がそのような態度をとったのかと、事後的には不可解に思って自己嫌悪に陥ることもあります。

これらのことから考えると、怒ることは、感情的にも身体的にもいわば罠(わな)に入っている状態である、とみることが可能です。とはいっても、怒りの感情を直接コントロールするのは、なかなか容易なことではありません。

では、そうした状態から抜け出すにはどうすればよいのか。それは、怒るのではなく、むしろ逆に「許す」という、全く反対の態度を取ることによって可能となります。たいていの場合、許せないからこそ怒っているわけだから、それは必ずしも容易なことではない。また、論理的にみると、それは一見矛盾しているようにみえる。しかし、多くの書物や教えが示しているように、それが解答なのです。そのことを本当に習得しない限り、いつまでも罠から抜け出すことができないのです。とくに、古い怒りを抱え続けている場合、すなわち「恨み」を抱いている場合には、とくにその状況にあるといえます。なぜなら、そこでは、恨みをもたらした原因が自分の落ち度によるものか相手の落ち度によるものかはもはや問題ではなく、何ら益するところのない抑圧された感情が自分に覆いかぶさっていることこそが問題といえるからです。

許すこと、寛容になること(forgiveness, forgiving spirit)は、われわれの弱さを示すものではなく、むしろ強さを示すものと考えることができます。なぜなら、そうすることによって、それまでの囚われた感情から開放され、より健康的な精神を取り戻すことができるからです。そうすれば、人生や第三者を見る目も変わり、自分のエネルギーや気持ちをより前向きのことに向けることが可能になるわけです。つまり、許すことは、逆説的ではあるが、本当の精神的健康をもたらしてくれる。だから、その結果、われわれはより幸いになれるのだ。

「許す」ことには、大きな力が秘められている。このことは、賢人が古来から説いてきたことである。例えば「許しなさい、そうすればあなたも許される」「恨みの対象となっている人のために祈りなさい」などの有名な教えは、こうした大きなパラドックス(逆説的真理)を示すものと私には思えます。私は宗教家ではないので、これらの教えが求めるところまで徹底したことをいう資格も、またそのつもりもありません。ただ、怒りの感情を持っている場合、思い切って「許す」という気持ちに切り替えることには、大きなそして積極的な意味があることだけは、確信しています。

私自身の経験を振返ってみても、例えば、自分の思い通りにならなかったことを理由に人前で怒りをあらわにするなど、後悔するようなことをしてしまったことが少なくありません。そのように怒りをぶつけてみたところで何ら益するものではない。むしろ許すことが自分自身にとって大切である。このことが本当にわかるには、やはり長年かかったというのが正直なところです。一般に、年をとると性格が円満化する(怒りをあらわにすることが少なくなる)と考えられていますが、逆に言えば、上記のパラドックス(知恵ないし真理)に気づくには、私の経験に省みても、やはり相当の年月を要することを示唆しているのかも知れません。

怒りの気持ちが出てくるのを回避するために、私はいくつかのことを意識して心がけています。例えば、他の人のために何かを自分が(依頼を受けて、あるいはこちらから自発的に)行った時、その反応や見返り(感謝の言葉など)を期待しないことです。これは、許すという対応を、いわば事前的に行うことを意味しています。こうしておけば「せっかくやってあげたのに何も反応がない」などといって立腹することもありません。(なお、このことは、他人に何かをやってもらった場合、やってもらった人は感謝の気持ちを伝える必要がないということを意味しているのではありません。それは、次回述べるように全く別の問題です。)

もう一つの例として、色々な場面で長時間待たされる場合の私の対応方法を述べておこう。予想以上に長時間(それが数分の場合もあれば数時間に及ぶ場合もある)待たされるということは、日常的なことである。そのような場合には、いらいらしてくることが避けられない。しかし、そういう気持ちを持ったところで、問題が解決するわけではない場合がほとんどである。このため、むしろ発想を転換し、二つのことをすることにしている。

 一つは、そうして発生した時間は予想外の時間の贈り物であると考え、まったく別のことを考えるためにその時間を使うという行き方をすることである(例えば、目に入る周囲の人の生活的背景や人生を色々な観点から考えてみる、あるいは自分の懸案を思い出してみるなど)。もう一つは、待たされているのは、自分としてやってもらいたいことがあるためであるので、むしろそれをやってくれること自体をありがたいと捉えることである。こうした発想の転換をすれば、心が安らかになる。

 怒りには、多大なエネルギーの消費を伴う。怒るよりも、むしろ意図して許すように努める方が、エネルギーの使い方としてもまた自分の精神上も得策である。

(「金融経済論」講義より。二〇〇二年七月八日)






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