(十二)受容---他人の行動は受容し自分の行動を変えた方が心が落着く

これまでに私が送ってきた一連のメッセージは、もっぱら、大きな未来を前にした大学生諸君はどのような生き方をすべきか、を念頭に置いたものであった。これに対して、今回から四回にわたるメッセージは、より内面的なものである。したがって、それらは諸君にとって大学時代にだけ意味があるというよりも、それ以後の人生においても人間として生きていくうえで重要である、と私が考えるものである。

その最初のメッセージは「他人の行動は受容し自分の行動を変えた方が心が落着く」である。われわれが問題に直面した場合、それに対応するには正反対の二つの態度がある。一つは、問題の原因が自分以外のところ(他人)にあるとして、その外部世界(他人)を変えることによって問題を解決しようとする態度である。もう一つは、自分自身を変えることによって問題解決を図ろうとする態度である。

われわれは、常々、第一の態度をとろうとすることが何と多いことだろうか。例えば、学生諸君の場合、期末試験の日、たまたま電車事故が発生したうえに乗り継ぎのバスも交通渋滞に巻き込まれたので、早朝第一限目の試験に三〇分も遅刻し、十分な答案を書く時間がなかった、といった状況が生じたとしよう。この時、われわれは、定刻通り動かなかった電車やバスのせいで自分の期末試験が犠牲になったと考え、腹立たしい気持ちになりがちである。また、この例とは別に、例えば職場においてチームを組んで仕事をしているような場合、怠惰なAさん(他人)がいるためにチーム全体の生産性が上がらない、Aさんさえいなければ職場ははるかによいものになりうるのに、といった気持ちになりがちである。つまり、これらいずれの場合も、問題の原因は自分ではなく外部世界にある、と見ているわけである。

しかし、このように自分以外のところに原因があることから生じたとみえる問題であっても、それを解決する方法が、実は存在する。そのためには、なすべきことが二つある。一つは、自分の力で変えられないものはそれとして受入れること、もう一つは、自分の態度(ものの捉え方、そして行動)を変えること、この二つである。なぜこれらが必要なのか、そして、なぜこれらによって問題を解決できるのであろうか。

問題の原因が外部にあるとして、外部世界(あるいは第三者)を批判し、それに関して現実と反対のことを求めても、それはまず自分の思う通りにはならないことでしかない。電車事故や交通渋滞は自分の思いによってその発生を左右できるものではない。またAさんの勤務態度を改善するよう命令したり、あるいは解雇することが自分にできるわけではない。また、そうした批判的気持ちを持ったところで、加えてみたいと考える罰則が関係者ないし当事者に対して課せられるわけでもない。だから、そうした思いを抱くこと自体が、自分自身のエネルギーを浪費させている。それどころか、そうした気持ちを抱くことは、自分自身のフラストレーションの高まりとしてはね返ってくることが多い。

だから、自分の力で変えることのできないものは、それを受入れる必要がある。このこと自体を認識し、悟ることは必ずしも容易でないかもしれない。しかし、それが第一歩としてまず必要である。それができれば、怒りやフラストレーションは次第に収まり、気持ちが和らいでくるはずである。

外部世界は変えられないのに対して、われわれ自身の態度(ものの捉え方、行動)は、われわれ自身が変えようとすれば、変えることができる。しかも、それはいつでも可能である。したがって、これこそが効果的な対応になる。変えられないものを変えようとするのではなく(それはそのまま受容し)、変えることができることに対して時間を割く必要があり、またそれを徹底する方が賢明である。またそれには、たいていの場合、多くの選択肢がある(あるいは創造できる)ことが多い。

期末試験の開始に絶対に遅れないようにするには、大きな時間的余裕をもって早朝自宅を出る、というふうに自分自身の行動を変えればよいのである。また、前日はキャンパス(SFC)の近くに宿泊することによってリスクを減らすことも可能である。あるいは、極端な対応ではあるが、徒歩で登校可能な地域に下宿を移転すること(それに伴い生活パターン全体をも変えること)も、自分の行動を変えるという意味で不可能なことではない。

一方、同じ職場のAさんのケースの場合、その人の働きぶりを問題とするのではなく、むしろ自分自身の態度を見返り、自分自身にとってできること(自分の仕事の手順見直し、一層の精励、職場環境の整備など)を考え、そして実行することである。そうした自分の態度をかえることによる対応は、チーム全体の生産性を上げるだけではなく、Aさんの勤務態度を変える可能性も多いにある。前向きの対応は、前向きの対応を増殖するものである。そうなれば、自分のAさんを見る目も従来とは当然変わってこよう。

自分の態度を変えることが、他人の態度を変える。しかも、自分の態度を変えれば、それはその何倍もの変化になって自分に返ってくることが多い。その結果、自分の他人を見る目もまた変わってくる。これは何と興味深い連鎖であり、また逆説(パラドックス)だろうか。

そこで、次の大きな問題は、われわれにとって何が変えられないものであり、何が変えられるものであるかを識別することである。これに関しては、欧米では広く知られた次の祈りの言葉(Serenity Prayer)が全てを見事に言い尽くしている。すなわち「変えることができないものについては、それを受入れる心の静かさ(serenity)を私に与えてください。変えることができるものについては、それをなしうる勇気(courage)を与えてください。そして、ものごとがどちらであるかを識別する知恵(wisdom)を与えてください」。この成句は、米国の神学者レインホルド・ニーバー(一八九二ー一九七一)によるものとされる。

変えることができないことを受入れるならば、心の静かさがもたらされる、とこの一節は述べている。その場合の心は、おそらくモーツアルトの最晩年の音楽(クラリネット協奏曲やグラスハーモニカおよびフルート等のためのロンドなど)と同じように、静かで、そしての秋の空のように晴れ渡って澄みきったもの、といえるだろう。そして、変えることができるものに対する場合には勇気を、さらには、ものごとがいずれであるかを知るための知恵を、この成句はそれぞれ懇願している。これら大きな三つのことが、何と鮮やかにここで統一されていることかと感じ入る以外にない。

本日以降のメッセージは、個人にとって内面的なものが多いだけに私個人の具体例を挙げるのは、これまでよりも一層困難である。私としては、上述したようなことの大切さを確信するようになったのは比較的近年のことであるが、これらを折りにふれてかみしめ、生活をしていくうえでのよすがとしている。

 なお、本日の深大なメッセージに関する例としては、あまりに卑近かつ矮小なものに過ぎないが、私自身の例をあえて一つ付け加えておこう。SFCへ電車で通勤するとき、駅のプラットホームの喫煙コーナーにたばこの煙が充満している状況に出会い、生理学的な原因で気分が悪くなることがある。なぜ公共空間でこのような煙害が許されているのかと不満を言いたくなる。(日本ではこの面での規制が欧米諸国に比べて著しく寛容であるが、それは取りあえず別の問題である。)しかし、そこは喫煙が認められた場所であり、それを自分が何らかの方法で直ちに無くしたり、あるいは変更させることはできない。また、たばこは有害だからといっても、そこで喫煙している人は、自分の判断に基づき、しかも規制を何ら犯すこともなくそれを行っているのであるから、それをやめてもらうことができるわけではない。それらは、私が変えることのできないことであり、受入れるしかないことである。だから、私としては、喫煙コーナーからできるだけ離れた場所から毎日電車に乗る、という風に自分の対応を変えるしかない。また、そうすれば、不愉快な思いをしたり不満を持ったり必要がなくなり、気分を落着けることができることになる。現にそれが私の対応方法である。

 自分の態度を変えることがカギである。それは誰にでもできる容易かつ現実的な方法であり、また永続性のある対応でもある。それが毎日の生活を落ち着きのあるものにする。

(「金融経済論」講義より。二〇〇二年七月一日)





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